チャンマダンと中国

中朝国境地帯のチャンマダンは中国との交易があるため、平壌など北朝鮮南部のチャンマダンとは事情が異なる。

新義州、会寧、穏城、茂山、恵山といった中朝国境地帯の都市では、中国の行商人が頻繁にやってくるため、中国産の衣服や靴、石鹸、煙草といった生活必需品を簡単に買うことができた。
しかし、こうした中国産の生活必需品は中朝国境地帯から遠ざかるにしたがって価格が上がっていく。たとえば、国境地帯では一個十五ウォンの石鹸が、咸鏡南道の咸興では二十ウォン、平安南道では二十五ウォン、黄海北道沙里院では三十ウォン、黄海南道海州では三十五ウォン。
これとは逆に、食料の価格は北に行けば行くほど高くなる。黄海南道では一キロ三十ウォンのトウモロコシが、黄海北道では四十ウォン、平安南道では五十ウォン、咸鏡南道では七十ウォン、最も高いときは八十~九十ウォンまで上がる。(安哲兄弟『秘密カメラが覗いた北朝鮮』)
恵山では昔から続く中国との交易の伝統があり、小規模ながら活発な闇市もあって、魚の干物から家電製品までが売買されていた。
一九八〇年代当時、女性が食べ物や手作りの品物を臨時市場で売ることは許されていたが、大規模な商売はまだ特別な闇の仕事だった。
父は国家による計画経済の間隙をついて成長しつつあった闇市の商売人の団体に加わった。最初は小さな商売から始めた。
恵山の闇市で高級煙草を一カートン七十~百ウォンで仕入れると、内陸部ではその煙草が一本七~十ウォンで売れた。当時は米一キロが二十五ウォン程度だったので、煙草がいかに貴重品だったのかがわかる(パク・ヨンミ『生きるための選択』)
中国との間で闇の品物を取引する商人たちは、市場の裏手の川沿いの低い家に住んでいた。(同書)
私の両親が子供のころは、まだソ連や中国からの援助で配給制が維持されていたので、飢える人もいないかわりに、ごく一部のエリート以外、豊かな人もいなかった。
外国製の服や電化製品、特別な食品などは、欲しくても需要に見合うだけの供給がなく、国営のデパートに行けばこういうものも売っていたが、値段が高すぎてほとんどの人には買えなかった。外国のたばこお言葉や酒や日本製のハンドバッグなどを普通の市民が手に入れたければ、闇市で買うしかなかった。
通常、こういう品物が入ってくるルートは、北の中国からだった(同書)