商売

北朝鮮は表向きは社会主義だが、脱北者たちが以下のように証言している通り、実際には自分たちで商売をしなければ生活が成り立たない。

元山でタイヤを扱っている人を知っていた私は、まず元山で、横浜から入って来るタイヤと機械部品、油などを仕入れ、それを売ることにした。作業班ごとにトラクターはあったが、タイヤと部品がないため動かせずにいるところがとても多かったので、とても見通しの明るい商売だと思えた。(夫址栄『祖国を棄てた女』)
当局は九六年の収穫期のあと、「トウモロコシや稲の根を掘って食べよう」という呼びかけを行ったというのだ。
どこの世界でも見向きもされないトウモロコシや稲の根っこ。それを何回も洗ってから粉々にして小麦粉に混ぜてお粥にして食べるのだが、加工があまりにも面倒すぎる。
第一、小麦粉を節約するために、野草や雑草はもとより、木の皮を薄く剥いで粉状にしたものを混ぜ合わせてお粥にするのだから普通には食べられた代物ではない。
それでも他に口にできるものがないので食べざるを得ないのだ。
こうなってくるとトウモロコシは貴重品である。一家の台所を預かった義準は、トウモロコシを使って密造酒を作り、それを売っておカネを手にしたという。
粉にしたトウモロコシに水と酵母菌を混合し、瓶に移してしばらく寝かせ、釜に移して抽出すれば出来上がり。原料のトウモロコシにたとえ八十ウォンかけても密造酒が百八十ウォンで売れれば百ウォンの儲け。(辺真一『北朝鮮亡命730日ドキュメント』)

学校の教師ですら仕事を放棄して食料を確保しなければ生活できないという。

物理の教師として九五年二高等中学校に勤務し始めた希根の初任給は五十ウォン。これは酒一本の値段に過ぎず、その給料さえも支給が遅れたり、支払われなかったりした。
新任の教師だからと言うのでなく、校長以下も同様。必然的に、先生たちも生徒を教えるどころではなく、自分たちで食糧を確保せざるを得なくなる。その結果、校長から「一か月やるから、三百キロの食料を確保してきてほしい」と、若い希根はカツギ屋に選ばれたのである。希根は先生の仲間などを頼りに、繭や薬草などをかき集めることに専念した。
それを外貨稼ぎ屋のところに持ち込み、中国産の小麦粉などと交換するためであった。外貨稼ぎ屋というのは、希根などが持ち込んだ品物を、中国などから北朝鮮を訪れる朝鮮人の商人に転売して利ザヤを稼ぐ人たちをいう。
たとえば、小麦百キロで仕入れた繭を百二十キロの麦と交換できれば、二十キロ儲けたことになる。中国との行き来が比較的盛んな新義州で中国製品の衣類や電化製品を買い求め、それを持って農村に入り米と交換、持ち帰ったコメを再び売り、利ザヤを稼ぐということもした。弟の希永となるともっと本格的である。
そもそも長兄・希根と同じ年に教員になった希永は、事実上職場を放棄したといっていい。方法は地元にある絹糸工場と手を結ぶこと。その工場は中国に繭を売ることをもっぱらの仕事にしており、繭十キロを持ち込めば、小麦百キロを渡してくれることになっていた。
希永たちは、平安南道・成川(ソンチョン)郡の山間にある農場に目を付けた。その近くにも絹糸工場はあったが、電力不足から生産を縮小しており、近隣の農場を回りさえすれば、繭を比較的容易に手に入れられると考えたからだ。事実、希永は思惑通り繭を十キロ集めて新義州の絹糸工場に持ち込み、小麦百キロと交換することに成功している。(同書)