経済

七〇年代までは、ロシアや中国などの共産圏国家の援助の元にあったおかげで、そして日帝時代のすべての工業施設が北朝鮮側にあったおかげで、どうにか国民の反発なしに暮らすことができた。(チャン・キホン『北朝鮮 普通の人々』)

脱北者のチャン・キホンが言うように、北朝鮮経済は七〇年代と八〇年代の間に分水嶺がある。元喜び組の申英姫も次のように証言している。

一九七〇年代までは、北朝鮮人民の生活もまあ耐えられるものだった。しかし八〇年代に入り、金正日が政権の前面に出始めてからは、衣食住という基本的要素を脅かすくらい北朝鮮経済は悪化していった。生産施設に対して再投資も行われず、機械が老朽化したり原材料が不足したりして、工場が操業をストップする日が多くなり、またその一方で戦時状態に備える「準戦時状態」のような訓練が頻繁になって、生産活動が阻害されたのである。
党は感想ご飯の粉のような戦時食品を準備するようにと人民に奨励していたが、一般人民の生活はますます圧迫され、貧窮していった。さらにまた緊張体制を理由に一か月に何回も行われる戦時訓練を通じて、人民の情勢を監視するかたわら、軍備備蓄という名目で、人民には絶え間ない忍耐と耐乏生活を強いていた。(申英姫『私は金正日の「踊り子」だった』)

八〇年代以降、北朝鮮経済が傾くきっかけとなったのは「六カ年経済計画」の頓挫だという。

現在の経済破たんを招くきっかけになったのは、一九七〇年代に国を挙げて取り組んだ「六ヶ年経済計画」(一九七一年~七六年)の頓挫である。
この六ヶ年計画は工業総生産を二・二倍にしようという目標を掲げたものだったが、計画半ばの七十四年二月の党大会で金日成は、当初の計画より二、三倍高い数字に変更をする。
金日成曰く「社会主義のより高い峰に登れる。南朝鮮革命と統一を早め、世界の革命的人民の闘いを鼓舞する」
要は革命の成果をより早め、それを世界に誇りたいという欲望に駆られたのだろう。
計画変更から半年余りたった一九七四年十月、混乱を収取すべく党中央の政治局会議が開かれた。当時、党中央の実権を握り、経済部門を担当していたのは金日成の実弟、金英柱副首相で、このとき政治局会議で自責の念に駆られて顔を上げることができなかったと言われる。このとき体制を立て直しに名乗りを上げたのが金正日で、これによって金英柱は失脚し、代わって、金正日が経済部門を含む党組織を全体を掌握して、実質的に北朝鮮のナンバー2に躍り出た。(張明秀『裏切られた楽土』)

七十四年二月の党大会で、金正日は、金日成の実弟である金英柱を失脚させる。以下はその党大会で議長を務めていた韓徳銖のメモである。

「六ヶ年計画の後半期課業遂行で決定的な意義を持つ七十四年の経済建設が予定より遅れ、その年の下半期になって経済に一大混乱をきたした。そのため十月、党の政治局会議が開かれた。会議では偉大な首領様におかれては参加者に向かって(計画通りに遂行できず、経済混乱を起こし)『どうするのか』と詰問された。その場は発言するものもなく、暗い雰囲気に包まれた。このとき金正日指導者同志におかれては大胆にも『それを俺に差し出せ』といって引き受け、すぐ党の組織・宣伝部の会議を開き、七十日戦闘を組織した」
(同書)

金英柱を失脚させて権力を掌握した金正日は、しかし、体制を立て直すどころか混乱させる。

経済部門を掌握した金正日が開始したことは体勢を立て直すどころか一層混乱に拍車をかけるものだった。それは「七十日戦闘」と呼ばれる戦闘方式の強制労働だった。
七十日戦闘が始まった当時、『労働新聞』にはこの七十日戦闘を強調する社説・論絶が毎日のように掲載され、「速度戦」「電撃戦」「殲滅戦」といったスローガンが掲載されていた。(同書)

八〇年代後半以降も経済の失速は続く。

北朝鮮の経済計画は一貫して重化学工業に力を入れてきたために、軽工業の立ち遅れが顕在化している。日用品や消費物資の欠乏が深刻化する中、金正日は「人民生活をさらに向上させるために」として、八四年、全国に二〇〇箇所の生活必需品直売所を設置するように命じた。しかし、生活必需品生産のための原料・資材・電力・燃料などの不足はいかんともしがたく、庶民の間からは「配給切符をもらっても、品物が来ない」「闇物資が出回っているが、高くて手が出ない」という悲鳴が上がっている。(夫址栄『祖国を棄てた女』)
八七年以後、北朝鮮では生活改善(主として衣類不足の解消)のため、「第二次七か年計画」のなかで順川のビナロン製造業に対する資金、資源(石炭)の莫大な投入があり、それが他の工場の生産の稼働率低下を招いた。肥料の生産量が極端に落ち込み、化学肥料に頼った農業政策の失敗と、日本統治時代に整備されたインフラの老朽化から追い打ちをかけるように起きた旱魃、洪水によって大変な食糧不足を引き起こした。(斎藤博子『北朝鮮に嫁いで四十年』)
北朝鮮当局が経済危機をもっとも深刻に感じたのは九十三年八月のことだった。金策製鉄所の溶鉱炉の火がことごとく消えてしまったのである。もともと金策製鉄所には大型溶鉱炉が三基あり、そこでの一日の総生産高は八百~九百トンほどだった。ところが資材の不足で八十九年からは三基の溶鉱炉のなかで一基しか稼働していなかった。
その最後の溶鉱炉さえも火が消えてしまったのである。平壌は大騒ぎになった。非常対策委員会が構成され、その委員長に金日成が手塩にかけて育てた崔永林が就いた。
原因は、コークスと重油の供給が中断されたからだ。コークスは中国から輸入していたが、その中国でコークスが底をついたとわかった。崔永林は製鉄所の職員を総動員して線路の周辺に落ちているコークスを拾い集め、軍からは重油を都合してもらった。その結果、ひと月ぶりにかろうじて溶鉱炉に火を入れることができた。当時、わたしも崔永林に会ったことがある。顔は真っ黒になり、生気がなく、頬がくぼむほどげっそりやせていた。(康明道『北朝鮮の最高機密』)