外国特派員

一九七八年、私が平壌に赴任した当時、外国の常駐正式特派員はソ連と中国の二か国、みんなで七人だった。ソ連はタス通信が二人、新聞「プラウダ」が一人、ノーヴォスチ通信が一人、中国は新華社通信が二人、新聞「人民日報」が一人、この新聞は中国共産党中央委員会の機関紙である。資本主義国のジャーナリストは「我が国の社会主義体制について悪い記事しか書かない」ので支局の開設を許可しない。
外国特派員に対する規制はふたつある。
ひとつは、団体や機関、あるいはその他個々の市民を取材する場合は、外交部報道局の許可を必要とすること。外交部に文書で取材許可を申請しなければならない。取材を希望する団体の名称、相手の役職、目的、入手したい情報の種類を記載、取材を希望する日の二か月以上前に提出しなければならない。
もうひとつは、外交部報道局の許可なしに平壌を離れることを禁止していること。唯一の例外は外国人専用の海水浴場がある黄海に面した南浦港だ。しかし北朝鮮外交部はこの海水浴場に出かけるにも、その旨を通告するように、「事故があるといけないから」なるべく避けるようにと執拗に勧告していた。ほかの地方へ出かける場合は報道局へ文書で申請しなければならなかった。(アレクサンドル・ジェービン『私が見た金王朝』)
ペレストロイカとグラースノスチ(情報公開)が進むにつれ、ソ連の紙誌も自由に活動できるようになり、北朝鮮の秩序をより客観的に、ときには批判的に報道した論評や、韓国の成果を好意的に伝えた記事が現れるようになった。こういった傾向は一九八八年のソウル五輪の後に強まった。ソ連の特派員や大使館の報道担当官が外交部報道局に呼び出され、こういった論評や報道に対する不満を聞かされることがますます多くなった。一九九○年の春ごろには、北朝鮮当局の批判をまねかなかったソ連の紙誌はひとつもなく、平壌から発信した記事に抗議をこうむらなかったソ連の特派員はひとりもいなかった。
大使も含めモスクワ駐在の北朝鮮外交官は、シュヴァルナッゼ外相やヤーコブレフ(当時のソ連共産党中央委政治局員)を訪ね、党中央委員会に足を運び、平壌に不都合な記事を発表しないように「措置」を講じるよう再三申し入れたのだった。しかもこの際、具体的な記事の内容を指摘するのではなく、「北朝鮮の社会過ぎ体制を誹謗している」とか「朝ソ間の友好強化に役立たない」といった一般的な局面から押してくるのだ。たびかさなる申し出にうんざりしたソ連側は、中央委員会も外務省も、いまではどこそこの国にどんな記事を書けといった命令はしていない、苦情があれば個々の紙誌の記者に直接いってほしいと突っぱねたという。一九九○年に入って北朝鮮当局はソ連の特派員に対して公然と圧力を加えるようになった。月に一、二階以上はインタビューを許可しなくなり、レストランでのサービスを拒絶するようになった。
「あなたはわれわれの国のことを悪く書いたから接待できない」と大同江ホテルのレストランの給仕長に断られたことがあった。
「当方の職員の立会いなしに撮影してみなさい、ろくなことにはなりませんぞ」と平壌をはじめてルポ撮影するためにやってきたソ連テレビ・ラジオ国家委員会平壌支局長のR・ベローフは、仕事に着手する早々、外交部報道局の職員から警告を受けた。「コムソモールスカヤ・プラウダ」紙のA・プラトコフスキー特派員は「米と鉄の塔」という記事を書いて外交部に召喚され、今後もこのような記事を書き続ければ「ただではおかない」と公式に警告された。
一九八九年夏、平壌で開かれた第十三回世界青年学生祭典の直前、平壌のソ連マスコミ代表部の枠は若干拡大され、タス通信、「プラウダ」、APN(ノーヴォスチ通信)のほかに、政府の新聞「イズベスチヤ」、青年向けの新聞「コムソモールスカヤ・プラウダ」、ソ連テレビ・ラジオ国家委員会の支局が追加された。
だが一九九○年九月、ソ連と韓国の国交が樹立されると、北朝鮮はAPNと「コムソモールスカヤ・プラウダ」の閉鎖を要求した。「コムソモールスカヤ・プラウダ」は「北朝鮮の現実を客観的に報道しなかった」などの理由からだった。
一九九一年末には、主に財政上の理由から「プラウダ」と「イズベスチヤ」が支局を閉鎖、テレビ・ラジオ委員会は人員を縮小、オペレーターを呼び戻し、特派員を一人だけ残した。
北朝鮮のテレビ局から「映像」を借り、テキストとコメントを付けてモスクワに送ることにしたのだ。(同書)