金正日の権力闘争史(七十年代、八十年代)

六七年の会議以降、七十年代に入っても金正日の反体制派の粛清は続いた。

金正日世襲体制に最後に反旗を翻した勢力は、副主席金東奎(キムドンギュ/抗日パルチザン時代からの金日成の部下)を中心とする反金正日派だった。
金東奎は一九七六年六月に開かれた政治局会議で金正日の政策を公に批判した。この席で金東奎は金正日の幹部人事と階級政策、後継体制確立過程などを集中的に批判した。
結局、金東奎と柳章植(ユチャンシク/金東奎に同調。日本の大学を中退、党国際部副部長。南北交渉で北側代表も務めた)は党の唯一思想体系十大原則に害毒を及ぼしたという罪状で、七十七年末強制収容所に送られた。
人民武力部副部長だった張成沢(金正日の妹婿で側近)の叔父張正桓(チャンジョング)も左遷された。
そのため、軍、司法分野にいた彼らの追従分子も農場や鉱山に追われた。
この一件で高級幹部だけにとどまらず、一般党員や住民の再評価作業が行われ、三十万人の党員が党から追放され、六十万人の和解党員が新たに補充された。(張明秀『裏切られた楽土』)

八十年代になると、金正日は首相となった李根模を失脚させる。

李根模は金日成によって党中央委員会の秘書になり、八十六年十二月には総理になった。金正日は李根模の追い落としを狙っていた。三十九号室の室長である崔福萬をひそかに呼んである種の指示を下した。
李根模は北朝鮮経済をよみがえらせるための青写真を密かに描いていた。第二経済に供給されていた電力の一部を民需用に回し、消費財の生産を伸ばすかたわら、中国との貿易を積極的に推進し、儲けた金でタイから米を買い入れる、というものだった。
ところが、総理に就任するや北蒼火力発電所と平壌火力発電所のタービンが示し合わせたかのように停まってしまった。電力供給に支障をきたすと、その他の主要な連合企業所と第二経済圏からいっせいに罵声が飛んできた。
「戦車砲の製造ができない、どうしてくれるんだ!電力を早く寄こせ」
国策事業として推進していた順川ビナロン工場の竣工計画が遅れるはめになったという報告が上がってきた。実験室の小規模施設(パイロット・プラント)では間違いなく成功したのに、ちゃんと設備を整えて試運転をしてみたところ、そのビナロンが出てこないというのである。
金策製鉄所と黄海製鉄所の溶鉱炉の火も消え、鋼材の生産量が急激に落ち込んだ。共和国建国以来、金策製鉄所と黄海製鉄所の溶鉱炉の火は一度も消えたことがなかった。
溶鉱炉の問題は、コークスと重油不足からきているのだから、中国から緊急に原料を買ってくればよいと考え、貿易銀行の責任者を呼びつけ、ただちに買ってくるよう命じた。
ところが、銀行にはいま外貨がまったくないという。外貨があるのは三十九号室傘下の大聖銀行だけだという。李根模はようやく金正日と第二経済の幹部どもにはめられたと気付いた。
八か月後、党政治局会議が開かれた。主催した金日成は怒り心頭に発した。李根模は経済を破たんさせた責任を問われてお払い箱にされた。(康明道『北朝鮮の最高機密』)