金正日の権力闘争史(六十年代)

金正日の権力闘争が始まったのは一九六七年五月の党会議である。以下がその概要。

金正日は一九六四年に金日成総合大学を卒業、党中央に配属されるが、まもなく党内に「不健全で不透明な気配」を感じ取る。
密かに探ってみると、その黒幕に党最上層幹部が浮かび上がり、その幹部が「自分の地位を悪用して党内にブルジョア思想、修正主義思想、封建儒教思想を流布させようと企んでいた」ことがわかった。
そして「個人崇拝に反対するとの口実で首領の権威を毀損し、首領がつくりあげた革命業績を抹殺しようとの策動」を察知した金正日が金日成に報告するに及んで、党中央の全員会議が招集される。
「金日成主席に置かれては、一九六七年五月初旬にブルジョア分子、修正主義分子たちの策動を暴露粉砕するための党中央委員会第四期第十五次全員会議を招集せられることになった」(張明秀『裏切られた楽土』)

この会議については以下がより詳しい記述となっている。

金日成の直系派閥は、国内共産党系列である甲山(ガプサン)派とパルチザン派に分かれており、後者が軍部を掌握して軍部派とも呼ばれていた。その頃、朝鮮労働党の実権を握っていたのは甲山派だったので「主体の確立」路線も甲山派によって推し進められていた。
ところが金日成は五十八年八月のソ連派、延安派の大規模な粛清「八月宗派事件」の危機に続き、この甲山派との亀裂が深まり、自らが打ち出した「主題の確立」と対決せざるをえなくなった。
甲山派の代表人物は党中央委員会組織担当副委員長朴金喆、対南事業部長李孝淳、宣伝担当副委員長兼宣伝扇動部長金道満らで、経済建設優先政策を要求した。
つまり経済事業は経済・科学技術専門家に任せ、党は干渉を少なくするよう主張した。また甲山派は金日成の弟金英柱に権力が集中する問題でも不満を募らせていた。
六十六年十月、金日成が第二次党代表者会議で国防と経済並進路線を発表すると、パルチザン派は支持、甲山派は反対に回った。
同月に開催された党中央委員会四期十四次全員会議で、党中央指導機関の職制改変があった。
党中央委員会委員長が「総秘書」となり党権が強化され、党中央委員会副委員長職が廃止され秘書局を設置、担当秘書制になった。
これにより、組織秘書と組織指導部長の権限が強まった。ところが、この党職制改変後の人事で金英柱が政治局候補委員、党組織秘書、組織指導部長兼務を命ぜられた。金英柱が金日成の次世代に浮上する有利な条件が揃った。これに対し、甲山派は金英柱をけん制し、総秘書金日成、崔庸健(ヨンゴン)、金一についで党内序列四位だった朴金喆を金日成の後継者として擁立する動きを見せた。宣伝担当秘書だった金道満は、朴金喆のイメージづくりとして一遍の映画を作った。
それが『一片丹心』である。この映画を通じて、抗日闘争当時の甲山工作委員会の業績を宣伝し、主人公朴金喆と妻の役割を強調しようという意図が見て取れた。
これに噛みついたのが金正日だった。金日成の長男という特権意識を背負い、父親の力を土台にした権力への野望を抱いて朝鮮労働党中央委員会の職務に就いていた。
その彼にとって金日成を抜きにした愛国伝説や甲山派大物のクローズアップは許しがたいものだった。
党中央入りした六十五年春、金正日は党中央の幹部を前に
「革命では首領問題が基本核です。首領がない革命の勝利を考えることは、太陽のない花を期待するのと同じです」
「首領のない人民大衆は『烏合の衆』に過ぎない」と人民を公然と誹謗中傷する言葉を吐いている。
こうして「主体の確立」の担い手に対する敵愾心を燃やし、彼らを修正主義分子、反党分子として攻撃し、粛清に乗り出したのが六十七年五月の党第四期大十五次全員会議である。
金正日はこの総会を前にして、自分の息のかかった一部の中央委員を集めて違法な事前集会(これは党規約に背く分派行為になる)を開いている。
そこで彼が自分の計画を話したとき、参加者たちは一様に驚き、うろたえた。(同書)

ここで出てくる党中央委員会組織担当副委員長の朴金喆は、金正日の権力闘争に巻き込まれ、壮絶な死を迎える。

国内に踏みとどまったパルチザンの方が国外で策動していたものより国民の尊敬を集めるのは当然。
だから朴金喆という人はすごい人気があって、金正日はそれが気に食わなかった。
失脚の段取りをつけるために、そうした会議を開いて彼をやり玉に挙げて、罪状をずらりと列挙するわけです。
朴金喆は「私は日本帝国主義の手先になったことは一度もない。私が私利私欲で行動したようなことは一度もない。この心臓を切り開いて見せてやりたいくらいだ」と言って、六十七年五月の会議で二階から投身自殺する。(萩原遼、井沢元彦『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』)

金正日は六七年のこの会議以降、さらなる反対勢力の粛清に乗り出す。

この一九六七年の十五次会議を契機として、どのくらいの人が粛清されたのか。
六十一年の第四回党大会で選出された党幹部のうち七十年の五回大会までに姿を消したのは政治委員十一人中八人、同候補五人中四人、中央委員八十五人中五十三人、同候補五十人中三十二人。
反党分子として粛清された党幹部のうち朴金喆、金昌満、李孝淳といった六十一年の第四回党大会で揃って中央委員会副委員長に選ばれた人たちで、「民族的で人民的な文化の建設」を訴えていた。これは金正日の唱える「首領の絶対化」とは相容れなかった。
「まず党員と勤労者たちの中で、背信者たちの害毒行為と思想的根源を明かされた首領様の教示と党文献を深く浸透させ、それを指針として不健全な思想余毒を根こそぎする組織政治事業と思想闘争を積極的に展開するように導いた。特にどの部門よりもその害毒的影響が強く及んだ文学芸術部門と出版報道部門を直接指導され、一九六七年七月には咸鏡南道に下られ、一部党組織に残存していた宗派主義、地方主義、家族主義的傾向を徹底的に根こそぎするよう各方面に力を入れられた。その方におかれては、竜城機械工業、興南肥料工場、咸興毛紡績工場をはじめ咸鏡南道と平安南道の多くの工場、事業所、農漁村に出かけられ、不健全な思想余毒を克服し、経済建設と国防建設を併進させることについての党の路線を徹底的に貫徹するため不眠不休の活動を続けられた」
つまり金正日は党幹部の粛清を終えると今度は自ら地方に乗り込んで、残存していた宗派分子狩りを徹底的に開始していくのである。(張明秀、前掲書)