金日成の死

一九九四年七月九日正午。テレビの司会者が黒のスーツに黒のネクタイを締めている。
「朝鮮労働党中央委員会、党中央軍事委員会、国防委員会、中央人民委員会、そして朝鮮民主主義人民共和国政務院は、全国民に対し、最高指導者金日成同志、朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国主席が突然の発作に倒れ、本日午前二時、逝去されたことを痛惜の念をもって通知する。自らの人生を独立のための民衆運動に捧げ、祖国発展のため、人民の幸福のため、国家統一のため、そして世界人民の主体的独立のための活動に、堅忍不抜かつ精力的に従事してこられた、敬愛してやまぬ父なる指導者のご逝去は我々の大いなる悲しみである」ラジオのアナウンサーが後継者について語っていた。
「偉大なる指導者の唯一の後継者、金正日同士が我々とともにある限り、我々の革命の勝利は盤石であります」いまここで自分が泣けるかどうかによって将来が決まる。
単に進路や労働党の党員資格だけではなく、自分の生き死にがかかっている。
清津の人口はおよそ五十万だが、金日成の銅像は八メートル弱のものが浦港広場に一体しかない。人々は広大な広場を埋め、真東に位置する革命史博物館前庭の芝生の上にまではみ出した。
人々の波が前方へ押し寄せ、列を作っていた人たちを押し倒し、既に地面にひれ伏していた人たちを踏みにじり、綺麗に刈り込まれていた生垣を押しつぶした。失神する人も多く、翌日からは警察がローブで行列を仕切って群衆をコントロールした。「アボジ、アボジ」と老婆が泣き叫ぶ。父親や紙に呼びかけるときの敬称である。「どうして、突然私たちを置き去りに?」と、次の男性が絶叫する。
列をなして待つ者たちは飛び跳ね、頭をたたき、わざとらしく卒倒してみせ、服を破り、白々しい怒りに酔ってこぶしで宙を打った。
悲嘆の学芸会は勝ち抜き戦の様相を呈してきた。誰が一番大声で泣けるでしょうか? 誰が一番とりみだしたでしょうか? テレビのニュースが嘆く人たちを煽った。
大の男たちが玉なす涙をこぼして泣きじゃくり木に頭を打ち付ける様子、船のマストに頭を打ちつける船員たち、コックピットで泣くパイロット、などなど泣き叫ぶ人たちのシーンが何時間も流された。「我が国はいま、五○○○年にわたる朝鮮人民の歴史上、最大の悲しみに包まれているのであります」と平壌のテレビ局アナウンサーは節回したっぷりに告げた。
死の直後に流されたプロパガンダ映画は、人民がもし十分に嘆き悲しむならば、彼は再び生き返るだろう、と告げた。「偉大なる元帥様が息を引き取られたとき、幾千羽の鶴が天から舞い降りて元帥様を運び去ろうとしました。しかし鶴たちにはそれができませんでした。なぜなら、北朝鮮人民が嘆き悲しみ、叫び声をあげ、胸を叩き、髪をひきむしり、大地を打つのを見たからです」
最初、悲しみの自発的表明であったものが、愛国的義務になってしまった。喪中の十日間、女性は化粧も髪のセットもすべきではないとされた。飲酒、ダンス、音楽は禁止された。
人民班は人々が何回、金日成像へ礼拝に行ったかをチェックしていた。なにをしたかのチェックだけでなく、顔の表情や声の出し方まで観察され、それによって忠誠度が計測された。
ミランは喪中の十日間、一日二回礼拝へ出かけなければならなかった。一度は幼稚園の子供たちを連れ、二度めは教師の労働単位に混ざって。クラスに五歳の女の子がいて、その子の鳴き声はけたたましく悲嘆の感情がむき出しなので、今にも卒倒するのではないかとミランは心配した。だがしばらくして、ミランはその子が手に唾を吐いてそれで顔中を濡らしていることに気付いた。「泣かなかったら、あたしは悪い子だって、お母さんが言ったの」と白状した。清津出身のある有名な女優は、無理に泣くことができなくて進退窮まった。政治的信条が問われただけでなく、失職の危機に瀕した。(バーバラ・デミック『密閉国家に生きる』)
いつも通り学校へ行くと、昼食時間の直前に教室に教師が一人入ってきて「今日はもう休みです」と告げた。朝鮮中央テレビの有名なアナウンサー、リ・チュニが黒い服を着て、眼は真っ赤で泣いていた。
ラジオでも「偉大なる心臓が鼓動を止めました」という言葉で大々的にこのニュースが報じられた。翌朝、全校生徒が後者の前に集められ、校長をはじめ教師たちが順にスピーチを始めた。皆、悲しみを隠そうとせず、涙を流しながら話した。校内放送でずっと葬送曲が流されていた。集会は何時間も続く。誰も私たちに「泣け」とは命令しなかった。
たとえ遠回しにでも「もし泣かなかったら疑いの目で見られるぞ」などとは言っていない。しかし、みな泣くことを求められていると知っていた。翌日にも同じような集会があった。今度は恵山公園の普天堡戦闘勝利記念塔のそばだ。
何時間も続くうち、悲しみの表現は徐々に常軌を逸していった。学校の授業はすべて中止になり、製鋼所も製材所も、その他の工場も、商店も市場もすべて操業、営業を停止した。毎日、教師は私たちを丘の上に連れていき、恵山公園の金日成の銅像に手向ける野の花を摘ませた。そのうち花は一本もなくなったが、どこか別の場所で花を見つけなければならない。手向ける花が少なすぎては、偉大な指導者への侮辱とみなされてしまう。野原で花を探していたときに、トンボの群れが私たちのそばに飛んできた。
「見なさい」教師は本当に驚いたという声で言った。「トンボまでが偉大なる指導者の死を悲しんでいる」嘆き悲しむ日々が終わると、恐れていたことが起こった。
流した涙が少ないものには罰を当てるというのだ。全校の生徒が校庭に集められ、嘘泣きをしていたとされる女子が一人、みんなの前に出された。そしてみんなに一斉に
罵詈雑言を浴びせられた。(イ・ヒョンソ『七つの名前を持つ少女』)
金日成の銅像のところで追悼の音楽を聞いて泣いた。泣くつもりはなかったけれど、泣きたくなるような雰囲気がつくってあった。時間がたつと、涙も出ないのに声だけ出す人がいた。
自発的に銅像のところに行く人はごくまれだろう。僕は朝鮮労働党員として、毎日行くよう言われたが、実際に行ったのは四回ぐらい。最初は十日間行くように決められて、それが百日間に延ばされて、また延長されて十二月末までになった。(朝日新聞アエラ編集部『北朝鮮からの亡命者』)
「銅像の前は二十四時間、泣き声が涸れないようにすること」という金正日の言葉もついてきた。弔問の途中で足元がおぼつかない女性が転んで、泥だらけになった。その姿を見てくすくす笑った人たちがいた。その人たちも全員、即連行されて収容所に入れられた。主席を冒涜した罪だと私たちには告げられた。(張仁淑『凍れる河を超えて』)