スターリン死後の金日成

五十三年にスターリンが死ぬと、ソ連ではスターリンの責任問題が出てくる。五十六年になると、北朝鮮でも金日成の責任問題が出てくる。表面上は重工業優先か軽工業優先か、という争いになって現れる。
「重工業で行け」ということをずっと提起してきたが、五十六年八月の中央委員会総会で「民は疲弊している。飯を食わせろといっている。
農業や軽工業のほうを優先すべきだ、いまから重工業をやってなにになるのか」という批判が、中央員会の中から噴き出す。それが金日成の支配権に対する挑戦、つまり間接的には朝鮮戦争の責任論になっていく。
まもなく「軽工業を充実しろ」と言った連中は命の危険を感じて中国やソ連へ亡命する。それで中ソが介入し、「お前たちはことを荒立ててはいけない。金日成がやったことは間違いだ。反対派を粛清するようなやり方は駄目だ」と言ってとりなす。しかし金日成は面従腹背で執念深く追及しようとしたため、反対派は命の危険を感じて中ソに逃げる。
これが一九五六年八月の『八月宗派事件』と呼ばれる反党反革命事件事である。(『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』)
金日成はそういう批判から逃れるために五十六年ぐらいから千里馬運動を起こす。重工業優先政策である。例えば鉄工所では、労働者が党中央の出したスローガンに対して二倍の生産高で応える。それが導火線になって次から次と各地で革新運動が起きた。(同書)