金日成について

「お国のために戦われる お父様を助けて 大元帥様は 秘密の連絡に行って来られました イルチェノム(日帝野郎)を憎まれる 心を育まれ 大元帥様は 秘密の連絡に行って来られました」ここでいう「お父様」とは金日成の父、金享稷である。子供たちに「父親を慕う心優しく勇敢な金日成少年が、危険も顧みずに、秘密の連絡に行ってきた話」を教える文章である。(宮塚利雄、宮塚寿美子『北朝鮮 驚愕の教科書』)
金日成は抗日パルチザン時代の経験から「わたしは、ゆくゆく国が独立すれば、地主、資本家が我が物顔にふるまう背倫背徳の古い社会を一掃し、万人が貧富の別なくひっつの家庭のようにむつまじく暮らす、美しく健全な社会を建設しようという決意を新たにした」(同書)
一番長々しいのを入れ始めたのは一九七二年の彼の六十歳の誕生日を前にした一九六久年ごろから「絶世の愛国者であられ、民族的英雄であられ、百戦百勝の鋼鉄の霊将であられ、国際共産主義運動と労働運動の卓越した指導者のお一人であられる、四千万朝鮮人民の偉大な首領金日成将軍様」と四つも冠がつくのです。(萩原遼、井沢元彦『朝鮮学校「歴史教科書」を読む』)
主体思想は五十九年十二月二十八日、金日成が党宣伝扇動活動家に行った演説「思想事業で教条主義と形式主義を退治し、主体を確立すること」のなかで、初めて『主体』という表現を使ったことに始まる。この演説で金日成は朝鮮の伝統と現実を無視し、教条的にマルクス・レーニン主義を真似する形式主義を戒め、その過ちの張本人として『ソ連派』の朴昌玉を批判して槍玉に挙げた。それまでマルクス・レーニン主義を掲げ、ソ連に学べと強調していたのは、ほかならぬ金日成自身である。祖国解放後、金日成の演説では決まって「スターリン大元帥万歳」と讃え、祖国の開放に力を尽くしたソ連に感謝の意を捧げていた。そればかりか、戦後の復興事業の過程でも、金日成は先進ソ連に学ぶことは我々の義務である、と公言してはばからなかった。
ところが五十三年にスターリンが亡くなり、フルシチョフがスターリンの個人崇拝を批判し始め、それによりソ連からの親離れを余儀なくされた。
そのため、金日成は教条的にソ連を真似する国内『ソ連派』を攻撃し、朝鮮の伝統の継承を強調した「主体の確立」を打ち出したのである。この時期の歴史研究は、今日のように金日成の抗日遊撃闘争を唯一の革命伝統とするものではなく、史実に則って乙支文徳(ウルチムンドク)、姜邯賛(カンカムチャン)、李舜臣(リスンシン)といった歴史上の名将の愛国心が称えられた。(張明秀『裏切られた楽土』)