エリート養成学校

北朝鮮の教育機関について脱北者やジャーナリストが語るのは、特権階級が通うエリート養成校や有名校の話が多い。

平壌市内の普通江(ポトンガン)のほとりに建つ南山(ナムサン)学校(中央党幹部か独立闘士の子弟のみが通う特殊学校)は、党高級幹部級の子弟だけが通う、いわゆる社会主義貴族学校で、幼稚園から高等学校まである。平壌市内の繁華街にある少年宮殿は、党性(家庭の党に対する忠誠心)が強く、かわいくて芸能に素質がある子供だけが通う特殊教育施設である。
万景台の隣にある万景台革命学院は、いわゆる革命遺家族の子弟が通う学校で、幼稚園課程からズボンに赤い筋に入った軍服を着せ、軍事教育を行い、中佐(中領チョンリョン)級の待遇をしている。彼らは品物も局長級以上だけが利用できる「十号商店」で購入するなど、あらゆる物質的な特典を受けている。(申相玉、崔銀姫『闇からの谺』)
金星中学校は芸術家を専門的に育てる学校として、学生少年宮殿を運営、管理していた。そして一号行事のときは、大部分この学校の生徒たちで「朝鮮少年団祝賀団」を編成し、いろいろな行事に動員される。大きな行事の時は五、六名、金日成の臨席する主席壇へは二十名以上が出て、感激した声で金日成の長寿を祝福し、業績を褒めたたえる。(『いま、女として』)
・南浦(ナムポ)芸術専門学校 芸術に関心を注いでいた金正日の「大衆芸術化方針」を実現する趣旨で、各道に芸術専門学校が設立されることになったのだが、各道ごとにはまだ準備が必要で、まず試験的に南浦市が選ばれたのである。(申英姫『私は金正日の「踊り子」だった』)
私の成分はよい方に属していた。母は、父親が朝鮮戦争で戦死したので万景台革命家遺子女学院で勉強した。(朝日新聞アエラ編集部『北朝鮮からの亡命者』)
私が物心ついたころ、父は平壌の社会安全部政治大学校に国内留学をしていて、ときどき休日に帰ってくるという生活をしていました。この大学は将来を嘱望される若者が職場の推薦を受けて入学するエリート養成機関としてよく知られています。兵役を終えてから、父はずっと咸興の社会安全部に勤務していたのですが、出世も順調で、海岸区域小隊長の地位にあったとき、推薦を受けて大学に入ったのです。(呂錦朱『少女が見た北朝鮮』)
金正淑教員大学は清津にある三つの教員大学の中でも一番の大学である。(バーバラ・デミック『密閉国家に生きる』)

以下の練光(ヨングワン)女子高等中学校はエリート校というわけではないが、金日成の視察によって有名校になった。

大同江にのぞむ練光女子高等中学校は一九七九年四月前は男女共学だった。学校には裁縫などの家庭科の授業があり、そのための特別教室もある。
最も人気があるのは音楽クラブ。
放課後どの生徒も最低一つは楽器の演奏を勉強しなければならないからだ。この女学校を一躍有名にしたのは一九七〇年、金日成が視察した時に与えた赤衛隊設立の指示である。
(アレクサンドル・ジェービン『私が見た金王朝』)

以下はスポーツのエリート校の話である。

南浦市にある中央体育学院は国家代表級の選手を養成する学校だ。高等中学校の過程と大学の過程がつながっており、九年制である。
この学校は、一九七五年二月二日、金日成が南浦市に視察に訪れた際、環境がいいということで国家代表選手と体育指導者を養成する体育学院を設立するよう指示し、二年の工期を経て一九七七年に創立された。
選手養成のための競技学部と指導者養成のための師範学部と別れていたが、私は競技学部に属していた。当時はスポーツ選手に対する国の待遇が良かったため、子供をスポーツ選手に育てたがる親が多かった。
なかでも卓球は、北朝鮮では有望な種目の一つで、卓球の国家代表選手になるのは、一族の誇りとされるほどだった。(姜哲煥、安赫『北朝鮮脱出』)
南浦には体育学院のほかにも南浦水産大学がある。水産大学の学生たちは、トウモロコシ畑とかキムチの入っている穴蔵をよく襲って盗んで食べるので、「キムチ大学」という別名がついていた。一方、体育学院の学生たちは周辺の村に入って盗みをよくするので「泥棒養成所」といわれた。水産大学は体格の良い除隊軍人出身者が多い。(同書)