政治学習

北朝鮮の人々は、毎日政治学習をすることを義務付けられている。学校に通う子供たちだけでなく、大人もまた対象となっている。

金父子の著作の学習や暗記に苛まされるのは学校ばかりではない。農村でのつらい勤労奉仕のあとでも、わずかな時間を惜しんでは「親愛なる首領金日成同志の労作」「偉大な領導者金正日同志の労作」の学習を続ける。
各職場で行われる金父子の著作集の学習会に出席したり、一月一日に発表される「新年の辞(一九九五年からは共同社説)」をしっかり覚えておき、正月明けに職場で発表しなければならないので、正月気分に浸っている余裕はないようだ。
一字一句、一言たりとも間違えて暗記しないように努力しなければならない。(宮塚利雄、宮塚寿美子『北朝鮮・驚愕の教科書』)


以下では政治学習の対象となる年齢、政治学習が行われる場所、学習内容、試験が行われることなどが脱北者によって証言されている。

北朝鮮のいたるところにある「金日成同志革命歴史研究室」は、北朝鮮住民にそのような思想教育をほどこす拠点である。
65歳以下の住民は党員であれ非党員であれ、この「金日成同志革命歴史研究室」で行われる六~八時間にも及ぶ政治学習に参加しなければならない。「金日成革命歴史」「金正日革命歴史」「金日成教示」「お言葉」「抗日パルチザンの回想記」「金日成徳性実記」「党政策」など、じつに十余冊のノートを準備しなければならない。宣伝扇動部は党員と住民が政治学習をさぼったりしないよう、その参加状況にも常に目を光らせている。さらに一年間に二度の試験を行い、思想的な統制効果が上がっているか、緻密に検閲する。もし学習状況が悪いと判断されると職場を左遷されたり地位を降格されるなどの処分が待っている。(尹大日『「北」の公安警察』)
新年の祝辞が出れば原文通りに覚えなければならない。みんなを「金日成同志革命活動研究室」に集めては、新年時の原文をおいて等分し、党書記が今日はどこまで覚え検閲を済ませろと割り当てる。そうすると、その日は検閲官の前でそれだけ覚えてから家に帰ることができる。学習では年齢は関係ない。年を取った人も覚えなければ家に帰れない。だからいつも記憶力の衰えた年配の人たちが最後まで残って苦労する。その次には必ず学習総括試験が行われるが、引っ張りまわされなければならない。だからその頃には、どの家に行っても父母息子娘孫たちが金日成の新年の祝辞を覚えようと、それこそ狂人のようにぶつぶつ言っているのが目につく。(チャン・キホン『北朝鮮 普通の人々』)

以下は北朝鮮の強制収容所である第十八号管理所での様子である。

夕食が終わると今度は教養室に行く。二時間たっぷり学習を受けるのである。安全員や下士官たちがきて、金日成の『抗日パルチザン回想記』や、金正日の『徳性実記』などを
読み上げ、それを書き取らせて暗唱させる。そのために小さな学習帳と、ちびた鉛筆が一本ずつ配られる。(康明道『北朝鮮の最高機密』)

このような政治学習を行う理由は、プライベートの時間を奪うことで国民を統制するためであるようだ。

偉大なる指導者や親愛なる指導者の演説を暗記させられることもある。勤務時間が終わった後に、何時間も続くような講演に出席させられることもある。講演のテーマは様々だ。
「党初期の革命史」ということもあれば、「豚の最新の飼育法」のこともある。水力発電についての講演もあった。金正日の書いた詩がテーマになったこともあった。
絶えず上から指示した活動をさせることで、国民一人一人が自分だけの個人的な生活を充実させないようにしているわけだ。だが、これは同時に監視のためのシステムでもあった。
毎日、集団での活動に常時参加していれば、誰かに見られることなく過ごす時間が必然的に少なくなる。(イ・ヒョンソ『七つの名前を持つ少女』)

また、以下のように金正日の直接訪問を受けた幸運な一般労働者のエピソードもある。

一九八六年に実際にあった話である。平壌市内の工場で働いている人が年末に金父子の学習総括を行ったが、試験の結果があまりにもよくなかったため、「君は思想的にあまりにも怠惰で乱れている。社会主義建設の妨げとなる者である」と叱責された。彼は明け方の二時まで電気をつけて学習を続けた。
そのとき、ちょうど金正日が車に乗って平壌市内を回っていると、明かりの付いたアパートの部屋を見つけた。金正日は車を停めて、家に行った。
「同務はいま、なにをしていたのか?」
金正日は床に広げられたノートに視線を注いだ。「偉大な首領様と親愛なる指導者金正日同志の革命史を勉強していた最中です」金正日は顔をほころばせ「同務こそが党と首領様に忠誠をつくす真なる革命家である」とほめながら、奥さんに、ご主人と一杯やりたいから酒を一本持ってこいと言った。
金正日は帰り際にこう言った。「また来るから会いましょう。同務は忠実な革命家だ」次の日の朝、黒い乗用車が何台もやってきて、その家の家族を連れていった。この労働者は幹部に昇進した。このような出来事があってから、平壌では夜中の二時、
三時まで明かりをつけてまま寝るのが流行した。(チャン・キホン、前掲書)