集合住宅

父は空軍で高い地位についていたが、提供される住居はさほど快適とはいえなかった。咸興で住んだのもやはり基地の中で、コンクリート造り六階建ての集合住宅である。
エレベーターはない。住戸の中には三部屋あったが、お湯は出ない。壁紙は黄ばんでいたので、母がすぐに洗うこともできる高級なものに取り換えた。
母は、浴室の壁にもすぐ青いタイルを張らせた。冬にはパイプが凍るし、夏はカビで外壁が黒くなる。(イ・ヒョンソ『七つの名前を持つ少女』)

北朝鮮では、十五階以下のアパートにはエレベーターをつけないのが原則だ。(朝日新聞アエラ編集部『北朝鮮からの亡命者』)
我が家は大同江の川辺にあるアパートであった。大同橋がさほど遠くない、中区域敬臨洞三十八班社会安全部交通省アパートである。
このアパートは朝鮮戦争後にソ連人が建てたもので、当時平壌市内では比較的高級アパートに属するものであった。
住民も労働党中央の幹部、社会安全部の幹部、巨額の寄付金を出した帰国者世帯などであった。
(姜哲煥、安赫『北朝鮮脱出』)
中区域は平壌市第一の中心区域であり、六○年代の最高の繁華街であったところだ。その中区域の敬臨洞三八班社会安全部交通省アパートの八玄関三階一号が私たちの家だった。
(同書)
私たち家族が最初に暮らしていたのは、二階建てのアパートで、一般労働者の典型的な住まいでした。中に二世帯住宅のようになっていて、我が家が一階に暮らし、二階部分は別の家族が住んでいた。そういう一棟二世帯のアパートが長屋のように連なっていて、二十世帯ほどが暮らしていた。各世帯に部屋は一間しかなく、トイレは共同でアパート全体の離れに建っていた。
トイレは、たいてい地面に穴を掘り、そこにドラム缶を埋めてその上を板と藁で隠しただけのものです。ドラム缶がいっぱいになればそれを汲み出して土と混ぜておく。
そして、一週間に一、二回の割合でこれをリヤカーに乗せて指定された村の農場に持って行く。夏場はつーんとくる刺激臭で目まで痛くなった。(呂錦朱、李美蘭『少女が見た北朝鮮』)
林立する円筒形の建物は、政務院指導員や副部長級以上の要人が居住する「円筒形アパート」と呼ばれるもの。一戸の広さは四十五~六十坪。(康明道『北朝鮮の最高機密』)
目抜き通りのアパートは色とりどりのタイルが張りつけられていた。だが私の兄嫁が住んでいた裏通りのアパートの壁のどこにもタイルは見られなかった。どす黒いセメント張りで、うす汚れた感じだった。建物の前の道も舗装されておらず、後ろ側のかなりの面積を占めていた空地も汚れていた。壊れて様々な形をしたセメントブロックが散在していた。コークスの燃えカス、練炭の灰などもあっちこっちに乱雑に捨てられていた。(金元祚『凍土の共和国』)
父の部屋は八階建て団地の最上階にあった。エレベーターはなく、部屋にたどり着くには暗い階段を八階分上らなければならなかった。だから北朝鮮では下の階の方が好まれる。お金のない人ほど高い所に住むことになる(パク・ヨンミ『生きるための選択』)