不凍の工業都市

清津市は、北朝鮮の東北部に位置する咸鏡北道の道都であり、港湾工業都市である。

清津港は、昔から不凍港として有名で、共和国の大都会のひとつだ。清津は工業地帯の中心地でもあるが、日帝時代は農作物の輸出港としても発達した。我が国を植民地にした日本帝国主義者はこの港から、魚を加工してつくった魚油はじめ豆類、木材、海産物などを大量に日本へ運んでいった。(金元祚『凍土の共和国』)

清津が重要な都市になったのは、日本植民地時代からである。

二〇世紀に入るまで、豆満江に沿い、中国とロシアと国境を接するこの朝鮮北端の辺境地には、住む人がほとんどおらず、経済的重要性もなかった。過去何世紀もの間、人の数よりはたぶん虎の数、朝鮮民話の中でいまだに子供を震え上がらせる獣の数の方が多かっただろう。だが今ではそんな動物はもういない。日本人が帝国の建設に狙いを定めてからは、すべてが変わってしまった。咸鏡北道はちょうど日本が満州へ攻め込む進路上にあり、満州は第二次世界大戦の前段階で日本に占領された。日本人は茂山の、ほとんど未開発だった石炭層と鉄鉱石の鉱床に目を付けたが、採掘した戦利品を支配下の半島から日本へ向けて船積みする必要があった。清津は小さな漁村だったが、年間三〇〇万トンの貨物を扱うことのできる港へと変貌した。植民地支配中(一九一〇~四五年)、日本人は清津港に巨大な製鉄所を建設し、やや南寄りの土地に基盤の目状の通りと近代的なビルをそなえた計画都市、羅南を開発し、中国東北部侵攻を支援した日本帝国陸軍第十九師団の司令部をそこに置いた。さらに海岸線を南下したところに、彼らは白紙の状態から咸興の街を建設して巨大化学工場の本拠地とし、火薬から化学肥料までありとあらゆるものを生産した。(バーバラ・デミック『密閉国家に生きる』園部哲)

清津はいまでも、北朝鮮において重要な都市である。

「鉄鋼の町」とも呼ばれる清津は、鉄鋼生産に伴い経済的・戦略的重要性を増した。工場では時計、テレビ、合成繊維、医療品、工作機械、トラクター、鋤、鋼板、そして軍用品が生産された。カニやイカ、その他の海産物が輸出用に水揚げされた。港は造船所となった。海岸線の北から南まで、北朝鮮人は日本軍の軍事施設を引き継ぎ、そこに日本に照準を合わせたミサイル基地を建設した。それでもなお、周囲の町村は追放された者たちの姥捨て山であることに変わりはなかった。敵対階層や動揺階層に属する者たち、たとえばミランの父親などが、鉱山の町に住みついた。
しかしこれだけの重要性を帯びた都市を信用性のおけぬ人々の手に任せておくわけにはいかない。体制は核心階層の忠実な幹部を置いて、清津市が党方針から逸脱せぬよう監視する必要を感じた。
かくして清津には支配階級のエリートも居住する。彼らは追放者たちから遠くないところに(お隣というわけにはいかないが)住んだ。北朝鮮社会の両極端の異人種がまじわる人間関係が、清津という町に特異な活気を与えることになる。(デミック、前掲書)

九十年代半ばに飢饉が発生したときは、北朝鮮でいち早く被害に見舞われた都市でもある。

北朝鮮で三番目に大きく、九〇年代半ばの飢饉で最大の被害をこうむった都市だった。(デミック、前掲書)
清津は咸鏡北道に属する。そこは平安南道などの南の地域よりも先に食糧難に見舞われた地域であった。食料のない工業地帯から穀物が豊富な農村に出かけて、捨て値で売られている工業製品と、その二倍以上の値段につりあがった食糧と交換して食つなぐ。この方法は、北部の人々の間から始まったのである。(安哲兄弟『秘密カメラが覗いた北朝鮮』)