金正日の異母弟たち

ここでは金日成の第二夫人である金聖愛の二人の息子について記述する。
金平一と金英一である。
金正日は権力を継承するにあたって、自分の異母弟にあたるこの二人を権力レースから蹴落とした。
脱北者(北朝鮮の元政府高官であり、難民というより亡命者)の康明道は平一の人柄について次のように述べている。

わたしはソウルにきてから不思議に思ったことが一つある。それは、南の人たちが金平一に対して比較的いい印象をもっているということだ。大まかにいって、金平一は金正日より男前で気立てもよく、品位のある人間のように思われているのである。だが、それは違う。私の経験と観察したところによれば、平一は正日よりも頭も悪く、はるかに好戦的である。歴史には「もし」というのはあり得ないが、もし平一が正日を押さえて権力を掌握したとしたら、第二の朝鮮戦争が起きる可能性ははるかに高いといえよう。(康明道『北朝鮮の最高機密』尹学準訳)

平一が「頭が悪く、好戦的」であることを示すエピソードがある。

金平一と金正日の葛藤は、金平一が一九七六年に起きたあの八・一八板門店ポプラ事件をきっかけに保衛総局に入隊してからくすぐりはじめた。当時板門店で、人民軍兵士が斧でアメリカ兵を殴り殺したことから、南北関係が緊迫すると、金平一は金日成大学の学生を率いて真っ先に決起大会を開き檄を飛ばした彼は、金昌河、全ウィ(全文燮護衛総局の息子)らとともに、護衛総局の機械化大隊に志願入隊したのである。南朝鮮との戦争勃発に供えて決死隊を組織したのだった。その後、七九年には、党護衛司令部作戦部長として大佐まで昇進した。
金平一は地位が高まるにつれて、生活が次第に乱れていった。腹心である金昌河らとぐるになって、大城区域にある金炳夏の自宅に集まっては酒を飲んだりした。護衛総局合奏団の女子団員らを呼びつけて乱痴気騒ぎを広げるのはもちろんのこと、金日成の名が刻まれた時計をばら撒いたりもした。また、ときには「金平一万歳」を叫んだりしたものである。
金日成の唯一思想体系が確立されている北朝鮮では、想像すらできない行動だった。(同書)

「唯一思想体系」とは北朝鮮において唯一の原理原則であり、法律である。この国で崇拝の対象となるのは金日成だけであり、他の人物に対して「万歳」を使うことは「唯一思想体系」に反する重大な反逆行為とみなされる。

金正日は平一のこういった動きを見逃さなかった。そして、すぐに金日成に報告したのである。

一方、金正日は、平一のこのような動きを、十号室を通じて逐一把握していた。七九年に設立したこの十号室は、唯一思想体系に関する北朝鮮内のあらゆる噂や情報を収集し、処理する機関なのである。
金平一に関する詳しい資料ができあがると、金正日は即刻これを金日成に報告した。金日成はこれを読んで激怒した。ことに、護衛総局合奏団の女たちを侍らしてピンク・パーティを催したり“金日成時計”をばらまいたりしたこと、それに、「金平一万歳」を唱えたという段にいたっては怒り心頭に発したのである。
「即刻クビにしろ!」
金日成の怒りの命令が下った。金平一はその日から制服を脱がされ、除隊させられた。それだけではない。金平一が所属していた護衛司令部の幹部たちも、ことごとく地方へ左遷されたのであった。
それと同時に金正日は、護衛司令部の人事の総入れ替え作業に着手した。金平一と握手の一つもした将校は、容赦なく軍服を脱がせた。護衛司令部の合奏団も解体した。
もはや北朝鮮の地にいられなくなった金平一は、結局留学という名目で終われるように東ドイツへ逃げてしまった。それ以来今日まで金平一は、ハンガリーやブルガリア、フィンランドなど海外を流浪する身となったのである。(同書)

平一が権力レースから脱落すると、母の聖愛も表舞台から姿を消すことになる。
これについては元喜び組の申英姫が証言している。

金日成と二番目の夫人、金聖愛(ソンエ)との間に生まれた金英一(ヨンイル)は、フィンランド大使である金平一(ピョンイル)の弟でもあった。かつて強い勢力を誇ったこともある金聖愛が金正日との権力闘争に負けると、すべての写真と記念物から女性同盟中央委員長を務めていた金聖愛の記録が消え、彼ら兄弟に対しては「枝」という言葉が使われた。
そして彼らに疎外と警戒の視線が向けられ、彼ら「枝」と親しい人々までもが「枝」として扱われ不利益を被ったのである。でも彼ら当事者にしてみれば権力や富を享受する点では、主流と差はあるだろうが、やはりロイヤル・ファミリーだった。(申『私は金正日の「踊り子」だった』金燦訳)
一時は金聖愛を偶像化したこともあった。金聖愛同志、女性同盟中央委員長の時代、彼女の本も写真も良く出回った。しかし金正日が登場してからは、金聖愛の宣伝は急激に減り、代わりに金正日の生母・金正淑が表に出始めたのである。(同書)